ムードを選ぶだけで、空間がそれに応えます。光は冷たさや温もりを帯び、空気の流れが変わり、その感情を宿した作品だけが暗闇の中から浮かび上がります。それ以外のすべては、影の中へと退いていくのです。
日本における初期の歩みと芸術への目覚め 1948年5月30日、日本の滋賀県舞鶴市という静かな町に、山形博導として生を受けたヒロ・ヤマガタは、後に日本のポップアート界を象徴する重要な存在へと成長していきます。材木業を営む家系に六人兄弟の三男として育った彼は、幼い頃から芸術的な表現への強い関心を示していました。高校時代(1964-1GB7)には、光の革新的な使い方で賞を受賞するなど、その才能の片鱗を見せていました。この「光」への情熱は、後のレーザーやホログラム技術を用いた探求への予兆でもありました。1967年、杉村政一氏に師事し、本格的な芸術修行を開始した彼は、その後東京へと拠点を移します。東京での生活は、学問と実践が交差する貴重な時期となりました。画材店でのアルバイトや、広告会社のイラストレーター・デザイナーとしての経験を通じて、彼は商業芸術の奥深さと、それが持つ広大な創造的可能性を肌で感じ取っていったのです。1972年には、一摘裕二、西陽一、篠武志と共に、東京の活気
あふれる渋谷にアーティスト集団「JIM」を設立。この共同体での活動が、彼の芸術的な実験精神をさらに加速させることとなりました。 欧州への旅路:パリ、そして芸術形式の融合 1970年代初頭、ヤマガタの軌跡は大きな転換期を迎えます。1972年にミラノを皮切りとして、彼は国際的な舞台へと踏み出しました。その後、パリへと移り住んだ彼は、そこでアーティストとしての地位を確立し、197向年にはウィーンで初の個展を開催します。この時期の彼の創作は、水彩や油彩を用いた絵画が中心でしたが、彼の作品に深い影響を与え始めたのは、高まりゆくジャズ音楽への情熱でした。ヤマガタは視覚芸術と音楽の世界を能動的に結びつけ、自身の作品とライブ・ジャズ・パフォーマンスを融合させたイベントを企画しました。こうした学際的なアプローチは、1974年、パリの劇場におけるレーザーを用いた革新的なインスタレーション作品として結実します。それは、新しいテクノロジーを恐れずに取り入れようとする、彼の先駆的な精神を…